~行動経済学から考える『やりがい搾取』問題のカラクリとは?~
近頃よく耳にするようになった職場での『やりがい搾取』問題
近頃、職場での『やりがい搾取』問題が話題になっているようです。
一般に、雇用主と労働者は、給与や業務内容、その他福利厚生などの条件において双方の合意が得られて初めて労働契約を交わします。
コンビニで接客をするというアルバイトがあった場合に、1時間接客業務を行って、その1時間に相当する時給が雇用主から労働者に支払われるわけですが、この場合、1時間のアルバイトをした労働者の側が雇用主に対して「いつの間にか私の労働力が奪われていた!!私の貴重な労働力を返せ!!」と訴えることはないわけです。
雇用主が法に反していなければ、労働者が2時間アルバイトをしたのに、半分の1時間分の時給しかもらえなかった、ということもないはずです。
とすると、『搾取』という不穏な響きの言葉が使われるくらいですので、雇用契約の中では謳われていない労働者の「なにか」が「対価」なく奪われてしまっている状態になっている、これが、いわゆる『やりがい搾取』問題の姿のようです。
労働者の見えないなにかが奪われてしまっている!?
問題が起きたときは、問題をできる限り因数分解するのがオススメ
たとえば、私は、腕力がなく、腕立て伏せができないのですが、腕立て伏せは、実はいくつかのパートに分かれていて、全ての動きが連動したときにあの腕立て伏せの動きができるような仕組みになっています。
私は、パートに分けて腕立て伏せの練習をするようにしているのですが、具体的に説明すると、下記のようになります。
まずは体の前面が床についている状態、体がつぶれた状態、この状態で手のひらを胸の横について、上半身を少し持ち上げるという動きだけを練習します。
このときは膝から下は床についたままで、下半身を持ち上げられなくてOKなのですが、上半身を完全に持ち上げるというよりは、膝はついたままで、胸を少し床から浮かせる感じになります。
続いて、今度は、やはり膝はついたままで、上半身が持ち上がっている状態から始めて、上半身を床に沈められるところまで沈める練習をします。
このように、動きをいくつかに分けて練習しているうちに、徐々に一連の動きができるようになり、腕立て伏せの動きができるようになる仕組みです。
少し話が逸れましたが、『やりがい搾取』問題も、『やりがい』と『搾取』に分けて考えてみるといいような気がします。
まず『搾取』についてですが、これは、他人からなにかを奪う行為であるということはすぐにわかりますネ。
ですので、『搾取』とはなんぞや?というテーマは深掘りせずに、ここでは、搾取されてしまっている『やりがい』とは一体なんなのか、『やりがい』の正体に迫ってみたいと思います。
お金がからむかからまないか
私は(私と主人は)、10年近く前にケガをしていた野良猫を保護し、今も一緒に楽しく暮らしていますが、将来このコが幸せに天寿を全うしてくれたなら、助けた甲斐があったと心から思うと思います。
飼い主がいないケガをした猫を保護したという行為は、私にとって、『やりがい』というより、もう『生きがい』のレベルに達する行為になるかと思います。
私は、もちろん、助けた猫から対価をもらっているわけではありません。
一方、職場で問題になっているやりがい搾取は、決して賃金未払いの状態になっているわけではなく、確かに労働者に対して対価は支払われているのに、問題になっている…。
会社で働いて対価を得るということは、ほかならぬ経済活動の一環です。
ということは、『やりがい』は『やりがい』でも、「お金がからむ」状況のものとそうでないものがあり、別々のものとして考える必要がありそうです。
かつてのシマリス
私が以前働いていた会社では、こんなことがありました。
同僚たちの多くが直属の上司とはあまり良好な関係を築けない中(汗)、私は直属のボスとは非常に良好な関係を築いていました。
私はボスのことをとても信頼、尊敬していました。
また、私は、お客様、取引先の方々、社内の関連他部署の方とも非常に良好な関係を築かせていただいていました。
仕事ができる私のボスにはいつも、ざっと見積もっても同じ部署の他の人の2~3倍の仕事が降ってきていました。
「デキル人のもとに仕事は集まるものだ。パレートの法則だ」などと言い聞かせながら、私はせっせせっせとボスを水面下で支える業務に従事してきました。
10年以上に渡って…。
そして、ある日、ざっと見積もっても、私の半分にも満たないであろう業務量の同僚たちの多くが、私の倍以上の収入を得ていることを知ります…。
ボスとの良好な関係は、もう空気みたいに当たり前のことになっていたので、「私は、この会社で、このボスのもとで、この上ないやりがいを感じて働いている!!」と意気込んで感じるようなことはなかったのですが、ふと、この時初めて「私、もしかして、やりがい搾取されちゃってた?!」と思ったのでした。
ところが、おかしな話なのですが、この時、単純に「私も同僚と同じだけの、もしくは、業務量から言って同僚の倍以上の給料をもらいたい!」と思ったのではなく、なにかもっと別の『違和感』をこの時に感じたのでした。
とある出来事がきっかけで、私はこの会社を辞めたのですが、その後、ひょんなことから1冊の行動経済学の本との出会いがあり、この違和感の正体を知ることになります。
対価をもらわないからこそとれる行動がある、対価をもらわないからこそ保てるモチベーションがある
突然ですが、こんなシチュエーションを思い浮かべてみてください。
今日は、長年おつきあいを続けてきたあなたのお隣に住むご家族が引っ越しをする日です。
昼間あなたが家の外に出ると「あ、ちょっとすみませんが、一瞬このソファをトラックの前まで運ぶのを手伝ってもらえませんか?」と、このご家族から声をかけられました。
特段出かける用事もなにか他に家でやることもないあなたは、「もちろん、喜んで」と答えて、ソファを運ぶのを手伝います。
その後、すべての引っ越し作業が終わった時に、ご家族が改めて「長い間お世話になりました。先ほどはソファを運ぶのを手伝っていただいて、ありがとうございました」とご挨拶に来られます。
ご家族は、「こちら、ほんの気持ちですが」と、近所のお店で購入したクッキーをあなたに手渡します。
あなたは、「お気遣いありがとうございます。皆様、引っ越し先でもどうぞお元気で」と答えて、このご家族を見送ります。
はい。
それでは、ここで、少し違ったバージョンも思い描いてみてください。
先ほどのシチュエーションであなたが受け取ったクッキーは、値段にして「1,000円」のものだったとします。
1,000円を出せば買えるクッキーということなので、もし最後のシーンで、ご家族が「こちら、ほんの気持ちですが」という言葉と一緒にあなたに1,000円札を1枚差し出したとしたら、あなたは一体どんなリアクションをするでしょうか?
なにを感じるでしょうか?
「長年お隣さんと良好な関係を築いてきたけど、ごく好意でソファを運ぶのを手伝ったけど、これって1,000円の価値だった?!」と首をかしげるかもしれませんネ。
いぶしかげに思うかもしれませんネ。
どうやら、対価をもらわないからこそとれる行動がある、対価をもらわないからこそ保てるモチベーションがあるようです。
「社会規範」と「市場規範」
「お金を見るのもイヤでイヤでしょうがない!」という人でない限り、ごく一般的に言えば、お金をもらうことをイヤだと考える人はそう多くはないと思いますが、どうして、上記の引っ越しのシチュエーションで1,000円札を差し出された時に違和感を感じたのでしょうか。
「なにかが違う」と思ったのでしょうか。
対価こそもらっていないものの、ケガをしている猫を保護したり、近所の人の引っ越しを手伝ったり、必ずしも昇給には直接結びつかないけれども、関わる人ひとりひとりと「信頼と尊敬」の関係をコツコツ築き上げて、真面目に仕事に従事したりする、これらの行為は行動経済学では『社会規範』に基づく行動と定義されています。
一方で、いわゆる「特定の対価を支払う(もらう)」という条件付きで行われる一連の行為は『市場規範』に基づく行動と定義されています。
そして、行動経済学の研究においては、まず初めに『社会規範』ありきで行動がスタートした場合、その後『市場規範』が入り込もうにも、『社会規範』と『市場規範』が共存することは困難であるということが、様々な実験データから明らかにされています。
隣に住む家族の引っ越しの時に「ごく好意で」ソファを運ぶのを手伝ってあげたあなたは、それに対する対価を得たくて、対価目的で手伝ったわけではない、すなわち、この行動は『社会規範』に基づいていました。
その後、対価(プレゼントではなく現金そのもの)を差し出されても、初めに『社会規範』ありきで行動がスタートした場合、その後に『市場規範』に転換しようとしても、すんなりと、言い換えるなら、心から納得してそれを受け取るのは難しく、違和感がある、「気持ち悪い」と感じるのは、このカラクリゆえと言えそうです。
やりがい搾取問題のカラクリ
会社で、顧客のためを思い、取引先のことを思い、ともに働く仲間のことを思い、誠意や尊敬を持って仕事に従事し、私のもとのには「いつもよく頑張ってくれている」という言葉と一緒に次から次へと仕事が降ってくるそのかたわらで、仕事が降ってこない同僚たちは、チャッチャと「昇給権限を持つ者の前で社内政治を繰り広げ」て、気がついたら、同僚の収入は、ざっと見積もっても、私の収入の3倍くらいになっていました。
かと言って、別に私自身は打算的にそういったスタンスをとっていたわけではないため、お金はあるに越したことはないけれども、仮にそれに対して一定の対価を差し出されたとしても、「なんだかな…」な境地のままです。
まず初めに『社会規範』ありきで行動がスタートした場合、その後に『市場規範』が入り込むのは難しいゆえです。
そして、行動経済学の研究においては、その逆もまた真なり、ということが明らかになっています。
つまり、初めに「お金ありき」「お金の追求ありき」で行動がスタートした場合、その後になって『社会規範』が入り込む、『社会規範』に転換する、『社会規範』と共存することは難しい、とされています。
このことから、かつて私が働いていた会社や、この記事を読んでいる方の中で「もしかして、私、今の会社でやりがい搾取されちゃっている?」と感じているあなたの会社は、『市場規範』ベースでしか人事評価・マネジメントができない会社である可能性が高いかもしれません。
少なくとも、その人事評価の権限を持つマネージャーなり、部長なりがかつて自分が評価をされる側の人間だった時代には、『市場規範』ベースでしか評価を受けたことがないのかもしれません。
あるいは、日頃から、なにかと「これをやっても、なにかの対価が得られるわけでもないから、これはやらない」と、『社会規範』的な行動を極力排除する傾向のある人かもしれません。
いわゆる損得勘定ですネ。
だとすると、そのマネージャーなり、部長なりは、初めに『市場規範』ありきになるため、『社会規範』に基づいて部下に接すること自体がそもそも難しいのかもしれません(悲報)。
会社とは、企業とは、常に利益を追求し続ける宿命を背負っています。
ボランティア活動をしているわけではありませんので、1円でも多く利益を上げる必要があるでしょう。
ですので、かなりの葛藤は避けられないとは思いますが、少なくとも、会社という組織の中で人事評価の権限を持つ立場にある人は、この行動経済学のセオリーを知っている必要があるのかもしれませんネ。
そうなれば、職場でのやりがい搾取問題も多少なりとも改善されるかもしれません。
シマリスなりの結論
もちろん、不当に安い賃金で労働力が買い叩かれるようなことがあってはいけないと、私は思います。
しかし、ひとつ確実に言えることは、対価こそもらっていないけれども、あの時ケガをしていた猫を保護して本当によかったと私は思っているし、対価には直結していなかったけれども、かつていた「会社」というひとつのコミュニティの中で、関わる人ひとりひとりと「信頼」や「尊敬」に根づいた関係を築きながら仕事に従事できたこと自体は宝だと私は思っています。
感謝
この禅問答は、ダン・アリエリー著『予想どおりに不合理』からヒントを得ました。
♪わかっちゃいるけど、やめられない♪的な予想通りに不合理な行動心理のセオリーをたくさんの実験から導き出し、堅苦しい専門用語は使わずにユーモアあふれるタッチで行動経済学を説いてくださったアリエリー先生に心から感謝します。
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